GoodとHappyを手放せない私について

『善き人』を観ながら、何度も何度も「これは私だ」と思った。

 

目の前の光景をただ眺めるうちに、頭のどこかで音楽が流れていることがある。

他人との会話の途中なのに、ふと思い出した過去の記憶について考えることがある。

良い振る舞いをしようとしているのに、思い通りの反応を返してくれない相手に苛立ったことがある。

出来事を受けとめるために、自分のなかで理屈をつけてそれを正当化したことがある。

自分は幸せだと思うことがある。

「善い」人でいたい。

「幸せ」でいたい。

 
一度目にこの作品を観たときは、あまりにも感情移入しすぎてほとんど言葉が出なかった。
二度目は、夢中でひとつひとつの言葉、仕草、声や表情を追いかけた。
すべてを呑み込めた気は到底しないが、少しだけ考えて言葉にできるようになった。
だからこのブログを書くことにしました。
 

主人公・ハルダーについて

見ていられないのに、目が離せなかった。
 
『善き人』は舞台であると同時に、ずっとハルダーの一人称の小説を読んでいるような気がした。
あけすけにさらけ出される彼の葛藤、欺瞞、自尊心、耽溺と保身と自己正当化、それら全てが耐えがたいほど醜く、けれど最初から最後まで目が釘付けになった。
それはすばらしい脚本と演出のおかげでもあるけれど、最も大きな理由は、ハルダー役がデヴィッド・テナントさんだったからだと思う。
 
私はデヴィッド・テナントさんのことは『グッド・オーメンズ』S1で知った。(S2はまだ見ていません)
それ以外の彼の出演作品を見たことはないけれど、クロウリーはものすごく良かったし、個人的に関心のあるテーマだったので『善き人』を観ようと決めた。
 
そして二回も観た今になっても不思議に思うのだけど、クロウリーもハルダーも、どちらも同じ人が演じていると分かるのに、信じられないほど違うと感じる。
あの魅力的な悪魔を活き活きと演じていた人が、この舞台の上では善良で傲慢なインテリにしか見えないことに、本当に驚いた。
 
彼がハルダーを演じていなければ、私はこの作品を知ることはなかっただろうし、もしかしたら二度も観に行くこともなかったかもしれない。
 
素晴らしかった。ありがとうございます、デヴィッド・テナントさん。この舞台に出てくれて、演技を見せてくれて。
 

GoodとHappyは両立できる?

主人公のハルダーは、ずっと誰に対しても「善い」人であろうとしているように見えた。
 
率直に言って八方美人だが、私は必ずしもそれは悪いことではないと思う。誰にだってできれば善人だと思われたい気持ちは理解できる。実際、他者を傷つけるようなことはしたくない。それに善くないやつだと思われたら、色々な不都合をこうむることになりかねないし。
 
「善い」人であるということは、ハルダーにとってある意味では自己防衛の手段だったのだと思う。そこに彼本来の性質としての善良さがなかったとは思わないが、少なくとも作中では一貫して、ハルダーの「善い」振る舞いは自分を守るためのものだ。
 
ハルダーは目の前の相手にとっての「Good」を行いながら、同時に自分のことを守ろうとしている。「Happy」な自分のことを。
 
いつしか彼は、「Happy」な自分を守るために、「Good」でいられなくなる瞬間に見舞われる。自分を取り巻くあらゆるものに対して善でありたかったのに、世の中はそう上手くはいかない。矛盾に板挟みになったハルダーは、「Good」でいられなくなった相手ごと切り捨てる。安楽死を擁護し、妻と離婚し、友人を見捨て、ユダヤ人を責め、そしてそんな自分を正当化する。自分に言い聞かせるさまざまな理屈や、アンや少佐の存在や、流れる音楽も彼を後押しする。
 
だが、ハルダーはどこかで自分のそうした保身と正当化に気づいているのではないかと思う。
 
水晶の夜の日、伝令にやって来た兵士の無邪気すぎるヒトラー賛美を聞いている時のハルダーの表情がとても印象的だった。「あなただって同じだろう」と向けられた矛先への、引き攣った面差し。正当化して見ないふりをしている己の醜悪さを、無遠慮にまっすぐに突き付けられた心地だったのではないだろうか。
 
そして、ハルダーが「Happy」にしがみついている間にも、現実は取り返しのつかない速さで進んでいく。
 
 

見るに耐えない現実

 
現実を直視することは本当に難しい。だから正直に言うと、私はハルダーが現実を自分にとっていいように受け止め、見たいようにものを見ていくさまがよく分かった。きっと私も同じことをするかもしれないと思った。ありのままの現実を思い知ることに耐えられない時、自分を守って何が悪い? 私のささやかでかけがえのない幸福を、なぜ他人のために手放さなければいけない?
 
そうして最後に、アウシュヴィッツへたどり着いたハルダーは音楽を聴く。彼はそれが、いつものように頭の中で流れていると思ったはずだ。観ている私も当然のようにそう考えた。だが違った。音楽も、演奏するバンドも現実だった。目の前に、現実に、バンドがいた。目を逸らしようがないほど真ん前に。
 
このラストシーンと演出に、私は衝撃を受けた。
舞台に詳しくないので正しい解釈かどうかは分からないが、舞台の上に実際にバンドがいることで、ハルダーにとっての「現実」は私たち観衆にとってもそうであると、ガツンと現実へ引き戻されたような気がした。バンドは現実なのだ。それを直視しろという意図が込められているのだろうと思った。
 
私は現実を受けとめるのが怖い。
自分の幸せを手放したくない。
 
だが、その行き着く果てのひとつの姿として、ハルダーを見てしまった。そして、彼が加担した途方もない罪悪を。
 
私はそうなりたくはない。けれど、どうすればハルダーのようにならずにいられるのか、そんな風に考えることさえ正しいのかどうか分からない。
だからずっと考えている。これからも考え続けたい。
 
そして、自分にできる限り現実を直視していきたいと思う。
 
 

アウシュヴィッツへ行った時のこと

 
2020年3月、まさにコロナ禍が始まろうとしていたころ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館へ行った。
 
当時私はスウェーデンに留学していて、たまたま授業が一週間休みになったので、どこかへ旅行しようと思い立ったのがきっかけだったと思う。直後からコロナ禍の混乱が起こり、私自身も色々な目に合ったため、あまりよく覚えていないのが惜しい。
 
クラクフからバスに乗って、博物館の前でガイドの方と合流した。
お願いしたガイドは中谷剛さんという日本人の方で、ツアーもずっと日本語で説明してくださった。中谷さんの言葉は的確で、感情をごく抑えて語られているように感じられた。私は世界史の知識として知るアウシュヴィッツと、今まさに自分の立っているアウシュヴィッツの実感に脳みそを揺さぶられながら、必死に耳を傾けていた。
 
あのとき感じたことは、未だに言葉にできない。言葉にしておかなければ忘れてしまうと危惧しつつも、どうしてもあの感覚を表現する言葉を見つけられないままだ。
 
ただ、『善き人』を観て、ひとつだけ強く思い出したことがある。
 
アウシュヴィッツ=ビルケナウは、とても、とても広かった。
 

 
人生で海や山の近くにばかり住んできた私にとって、ヨーロッパの平野はぺったりと広大に感じられる。アウシュヴィッツ=ビルケナウの敷地もまたそうだった。だだっ広い土地がえんえんと続き、遠くのほうに森が見えた。起伏の乏しい平らな道を歩くうちに、ブーツが土ぼこりで白く汚れ、体は芯まで冷え切っていった。
 
だがその広さは、その先に有刺鉄線のフェンスがないからこそ感じられたものだ。あるいは、私は銃で撃たれることなく、無傷でそれを通り抜けられると知っているからだ。
 
『善き人』を観たあと、今になってようやくそう気づいて、叫び出したい気持ちになった。
 
あの広漠な敷地は、しかし連行されてきたユダヤ人たちにとって、どれほど狭かったことだろう。
 
私はかつてアウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館へ行き、帰ってきて、そして今これを書いている。
私にできることは何だろうか。
 
GoodとHappyを手放すことはできなくても、考えることだけは止めたくない。
今はただ、そう思っています。